現実化する思考
「思考は現実化する」という本が、一世を風靡した時がありました。
また、後には思考の代わりに、「潜在意識」が注目を集めます。
潜在意識を活用すれば、思いは現実になるというように。

いずれも私たちの思いや願いが、
ある法則によって現実のものとなる、
その知られざる法則を明らかにしようとの試みです。

この流れの中から、
現在自分が経験している現実は、
自らが作り上げたものであるとの考えが生まれてきました。

例えばもし、何らかのネガティブな経験をしているのであれば、
それはあなたの中に存在していたネガティブなものが形となったのだと。

つまり、あなたが経験している現実は、
良きにせよ悪きにせよ、あなたの責任であるとの考えです。
あるいは、現実を作り上げられるほどの力が、
あなたの中にはあるということです。

この考えは、
何かもやもやしているものを抱えて生きている人たちに、
大きな喜びを持って迎えられました。

そうか!
私たちは思いを制御することで、
自分にとって好ましい将来を作り上げることが出来るのだ。
思いを選択することで、
素晴らしい将来を選び取ることが出来るのだ。

しかし、ここには大切なことが欠けているのです。
仮に思いが実現し、願いが叶い、
望むものが全て手に入れられたとして、
しかしながら、それは最も大切なことには何の役にも立たないということです。

その大切なこととは、
私たちが苦しみを離れ、
喜びや至福、あるいは救いを経験するということです。

仏教の智慧は、
全ての苦しみは思考から生まれてくることを教えてくれます。
その思考を現実化できたとして、
どうして苦しみからの解放があり得るのでしょうか?

私の考え、私の思い、私の願い。
それらは、苦しみからの救いには、
何の力も発揮しないのです。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮んだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
(コリント I 2:9)

このようなものだけが、
私たちの限定された思考の牢獄から誘(いざな)い出してくれる力を持つのです。

そして、それらは将来現実化するものではなく、
いま・ここでしか経験することの出来ないものです。

いま・ここ?
なに、それ。
いま・ここには、なにもないじゃない。

それは、目で見ようとし、耳で聞こうとし、
心に思い浮かぶものを探そうとしているからです。
だから、いま・ここにあるものを経験出来ないのです。

マントラ:
「わたしはいま・ここに満ちている至福を経験するために、
何も必要としない。」
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# by yoji_iwata | 2006-10-05 16:30

マザーテレサのエネルギー
マザーテレサがインドという土地であれほどの活動が出来たのは、
彼女が従来のキリスト教の枠に縛られていなかったからだと思います。

「イスラム教徒の人はより良いイスラム教徒になりなさい。
ヒンドゥー教徒の人はより良いヒンドゥー教徒になりなさい。」

そんなことは当たり前と思うかもしれません。
しかし、このように言うのは大変なことなのです。

キリストのみを救いと考えるのであれば、
その人たちをキリストに導かないことは、
その人たちが地獄へ引きずられていくことを止めないことだからです。
むしろそれを奨励していると言ってもいい。

そのような考えは全く愚かなことだと、笑う方もおられるでしょう。
しかし、多くの人が大まじめでこのように考えています。
キリスト教に限ったことではありません。

あるいは、「私たちは全ての宗教がつながるべきと考えます」
という人たちがいるかもしれない。
しかし注意しなければ、今度は自分自身が中心に入ってしまいます。
「どうして皆にはこのシンプルな真実が伝わらないのか?」とつぶやくとき、
もはやその人も一つの「宗教」にとらわれ始めているのです。
その言葉は、全ての宗教家がつぶやいてる言葉なのです。

マザーテレサは、彼女が属していた修道院を出て、
たった一人で活動を始めました。
このとき彼女が出たのは修道院という建物だけではなく、
従来のキリスト教の枠組みからも足を踏み出したのです。

だから彼女は修道服を脱ぎ捨てました。
そしてサリーをまとったのです。
修道服が表しているのは、今までのキリスト教の枠組みです。
彼女はそれを脱いだのです。
それではいったいなにが彼女に残ったのでしょうか?

それは、キリストの愛です。
彼女が分かち合おうとしたのは「キリスト」ではなく、
キリストの愛だったと思います。
キリストの愛という言葉にはまだ「キリスト」が残っていますが、
彼女が隣人に対して分かち合った愛に「キリスト」がついているわけではありません。
彼女の真実は言葉にではなく、行いの中にあるのです。

Missionaries of Charity
彼女は自分の活動にそのような名前をつけました。
Missionaries というのは「宣教師たち」という意味。
通常、宣教師の役割は福音をのべ伝えること、
つまりキリストによる救いを伝えることです。

しかしながら、彼女が伝えようとしたのは Charity(チャリティー)でした。
チャリティーとは慈善事業を意味します。
Missionaries of Charityは 「神の愛の宣教者会」と訳されますが、
原文の中に神は出てきません。
神の愛の宣教者会というときに、
その力点は愛に置かれています。
神ではありません。

もちろんマザーテレサはキリストを通して、その愛に触れたのです。
しかしながら、彼女が触れた愛はキリストを越えているのです。

彼女は自分の内に存在しているキリストの愛を、
行いの中に表しました。

Doing small things with great love.
小さなことを行なうこと ─ 大きな愛を持って。
It is not how much you give, but how much love you put in giving.
どれだけ多く与えたかではなく、与えることのなかにどれほどの愛が込められているかだ。
It is not how much you do, but how much love you put in doing.
どれほど行なったかではなく、行いの中にどれほどの愛が込められているかだ。

彼女の指標はいつも、何をどれだけなしたかではなく、
やっていることの中にどれほどの愛があるかでした。

お皿をテーブルに並べている人に彼女は言いました。
いまあなたは、どれほどの愛をもってお皿を並べているのかと。
それは、街に出て倒れている人を救うのと同じことなのです。
内側に存在している愛を、表現するということにおいては。

それこそがいつも変わることのない彼女の中心で、
彼女のエネルギーなのです。
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# by yoji_iwata | 2006-10-05 10:21

「神」という障害
全ての優れた宗教に共通する役割は、
私たちをエゴの牢獄から解き放ち、
もっとも本来的なものへと導くことだと思います。

しかしながら多くの場合、
宗教は逆に、
それに属するもののエゴを強めてしまう結果となるのです。

厄介なことに、
そのことは全く意識されません。
むしろ、そうすることこそが、信心深く生きることであると思われるのです。

私は無神論者だから、そのような愚かさとは関係がない。
そのように思われる方もいるでしょう。
しかしながら、とんでもない。
無神論者も全く同じように、
エゴの牢獄に閉じ込められているのです。

「パレスチナではなぜあんなに紛争が絶えないのか?
神を信じる人たちが、なぜあれほど人を殺せるのか?
私には分かりません。」

その「分からないこと」こそが、すべての問題を生み出しているのです。
神ではありません。
分からないのは、
人がどれほどエゴの牢獄に閉じ込められているかということが「分からない」のです。
自分の中に存在する牢獄も見えていないし、人の牢獄も見えないのです。
人は、自分の中に見えるものだけを、他人の中にも見ることが出来るからです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、
だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

最後の晩餐を終えたイエスが、弟子に答えてこう言いました。
この言葉は、もし表面的に取るならば、
とても排他的なものとなります。

「その他の全ては道ではなく、真理ではなく、いのちではない。
もちろん、そこに救いは存在しない。」

しかしながら、この言葉の本来の意味は異なります。
イエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と言うときの「わたし」は、
個人としてのイエスを越えているのです。

この言葉は、
「わたしの最も本質的な部分は、名付けることの出来ないもの。
それは道であり、真理であり、いのちである。
そして、それこそがあなたの最も本質的な部分でもある。」
と語っていると、私は思います。

もちろんそのように言ったところで全ては言葉であり、
その限界を超えることは出来ません。
大切なのは、それが指し示すところのものを、
少しでも自らが経験することです。

言葉を理解することではありません。

言葉を越えたなにか、
形を越えたなにかを経験するときはじめて、
言葉や形にとらわれることがなくなるのです。

私たちが言葉や形にとらわれるのは、
そのような最も大切な経験をまだ知らないからです。

そのとき、「神」という言葉、形は、
人と人との間に立ちはだかる大きな障害となるのです。
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# by yoji_iwata | 2006-10-03 17:09

病からの学び
ここ何日かは、随分と足の痛む日が続きました。

肋骨を折った話は以前に書きましたが、
今度は左側のお尻から太もも前部、
そして膝へと激痛が走るようになりました。
これがかなり痛かった。

ろくに歩く事も出来なくなり、
寝るときも、どちらを向いても痛い。
まず足を伸ばせない。
仰向けにもなれない。
もちろん肋骨も痛む。
だから、体を半分起こしながら、
だましだまし、なんとか寝る日が続きました。

これはおかしいと思い、
再度病院へ。
今度は腰のレントゲン、そしてMRIをとりました。
主にはヘルニアの可能性を見る為です。

骨の並びに問題はありませんでしたが、
一カ所、背骨から出ている神経が、
椎間板によって圧迫されているように見受けられる場所がありました。

もしこれが原因なら、相当に痛いだろうとの所見。
しかし、そうこうしているうちに、少し痛みが和らいできたので、
もう少し様子を見てみましょうという事で現在に至っております。

病というのはいろいろと大変ですが、
普段はなかなか学べないような事を学べる機会でもあると思います。

病から2つの大切なことが学べます。
多くの場合、この大切な事を学ぶ前に、病が治るのではないかと思いますが。
(これは嬉しいことでもありますし、残念なことでもあります)

まず一つ目は、自分が本当は誰なのかということ。
私は病気だ。病気にかかると、そのように思います。
それが重い病気であると、
その事実は更に重たいものとしてのしかかってきます。

私は病気である。
そのとき、私は病気を私だと思っているのです。
それは、自我こそを私だと思っているのと同じ様に。
どうしても目にうつるものしか見えないからです。

病気にかかっていても、
重い障害を負っていても、
死の床に横たわっていても、
光り輝いている人たちがいます。
その人たちは
本当の自分を経験している人たちです。
病気と自分を同一視することなく、
自分の中にあるいのちそのものにしっかりと足をつけているのです。
そのいのちこそが自分であると、経験しているのです。
だから、仮に動きは制限されていても、
誰よりも自由に、誰よりも力強く、輝きを発しているのです。
その力と輝きは、本当のわたしから生まれてくるものです。

それらの人は、
病気にかかっている私を通して、
「わたし」を見いだしたのです。

二つ目の学びはいま・ここです。
病気にかかると、過去と未来が私を締め付けます。
「どうしてこんな事になってしまったのか?」
「あんなことするのではなかった」
これが過去からの締め付け。

「これからどうなるのだろうか」
「もしなおらなかったらどうしよう」
これが未来からの締め付け。

もう、考えないようにしよう。
しかし、なかなか考えないことなどできません。
なぜなら、
もともと考えているのではなくて、
考えさせられているのですから。

私たちは頭を使っているのではなく、
頭に使われているのですから。
使っているなら、やめる事も出来るでしょう。
しかしながら使われている時には、
そもそもこちらに選択権など始めから無いのです。

しかし、一つだけその苦しみから逃れられる場所があります。
それが、いま・ここです。
そこだけが思考の濁流から救われる、
ただ一つの場所です。

自分がどこにいるのか、
病気の時ほど分かりやすいことはありません。
なぜなら、いま・ここを離れれば、
すぐに苦しみが襲って来るからです。

ただ、いま・ここにいる時だけ、
安らぐことが出来るのです。
それだけではありません。
いま・ここは、
最大限の自己治癒力を発揮できる場所でもあるのです。
過去と未来に、貴重なエネルギーを奪われないからです。

自分は本当は誰なのか。
そして、いま・ここ。

この二つはもちろんのことながら、
私たちが生きていく上で最も大切な事なのですが、
普段は痛みを感じないので、
無限に尽きることない、それ以外の事に埋没していくのです。

一方病気は痛みと苦しみを伴うので、
最も大切なことを大切なこととするよう、強力な促しがかかります。
それでもなかなかその事が分からない。
そして、しばらくすると病気も治っていく。

それは嬉しいことでもあり、残念な事でもあります。
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# by yoji_iwata | 2006-10-03 01:16

Bliss (至福)
「いまあなたは bliss(至福)を感じていますか?」

■bliss {名} : 無上の喜び、至福、この上ない喜び、幸福、天国(にいること)

最近はこの言葉もとても手軽に使われるようになってきて、
デザートを食べる瞬間とか、
温泉に入っている時とか、
他人の不幸を聞く時?など、
他にも色々出てくるでしょう。

さて、これら最初に頭に浮かんでくることはそれでよしとして、
あらためて至福とはと問うてみると、少し違った答えが生まれてくるでしょう?

自分が本当に満たされていると思う瞬間。
また、その自分を満たしているものが、
何かとても本質的なものであるという実感。

それはどこか静けさを伴うものです。
その静けさの中に満ちているもの、
時間とは切り離された感覚、
そのような中に至福は存在しているのです。

至福を感じるとき、
私たちは外側の出来事が、
人との関わりが、
そのとき私を取り巻く環境が、
それをもたらすのだと思います。

しかしよく見つめるならば、
そのとき自分の内側に生起している至福を、
外側の世界を通して感じているのだとエックハルトは言います。

私は、この言葉にはっとしました。

それは、内側に存在するものであり、
いつでもそこに戻ることの出来る場所なのです。
そして、その場所に戻ったときには、
あなたの周りのすべてが至福として感じられるのです。

外側にではなく、
内側にその鍵があるということは、
なんと素晴らしいことでしょう!

「いま」、あなたは至福を感じておられますか?
もし、その答えが「いいえ」ならば、
何か出来事が起こるのを待つ必要は無いのです。
目標が達成される瞬間を待つ必要は無いのです。
自分がもっと素晴らしい人間になれる日を、
待つ必要は無いのです。

静かに呼吸に意識を向けてみましょう。
頭の中には、きっと何らかの否定があるでしょう。
その否定は、現在の自分に対する、
あるいは、現在の状況に対する否定です。
もしくは、次にやるべきことで、
心が焦っているのかもしれません。

呼吸に意識を向けるのが難しいのは、
それを妨げようとするものが自分の中にあるからです。
「こんなことやっている場合ではない」とかね。

それがどんなことであれ、
それをそのままにして、ただそのままにして、
そこから離れ、呼吸に意識を向けていきましょう。
心配しないで。
これは、問題から逃げることではありません。
いま、ここに戻ってくることです。

体が生き生きと活動しているのが、感じられますか。
呼吸とともに、体が動くのが感じられますか。
虫の鳴き声や、風の音が聞こえますか。
しばらくゆっくりと、この感覚を味わってみましょう。
そこに静かなる至福を感じることが出来るでしょうか。

何かが起こることは素晴らしいことです。
けれど、なにも起こらなくても、
至福はあなたとともにあるのです。

この至福をいま感じられるでしょうか。

マントラ:
「私には何もない。ただ、至福だけがある。」
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# by yoji_iwata | 2006-09-29 20:03

所有
聖書の中に真理はありません。
般若心経の中にも真理はありません。
コーランの中にも真理はありません。

ただ、それらは指し示しているのです。
真理を指し示しているのです。

だから、聖書を持っていても、
般若心経をもっていても、
コーランを持っていても、
真理を持っているのではありません。

真理は、そこにはないからです。
真理はそれが指し示している先に存在しています。

そして、それは持つことの出来ないもの、
所有することの出来ないものです。
ただ、自らが自らの内に、
経験することの出来る何かなのです。

私の神、私の宗教と言うとき、
私たちは知らず知らずの間に、
所有しようとしているのです。
所有出来ない何かを、「神」を
私物化しようとしているのです。

名前をつけることの出来ない何かに、
「私の」という名前シールを貼りつけているのです。

無限の存在を、
理解という限定された枠組みに閉じ込めようとしているのです。

私たちが所有したいと思うのは、
所有することで、自分を大きくしたいからです。
自分を正しくしたいからです。

だから、本当に簡単なことでも、
とても難しいことになってしまいます。
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# by yoji_iwata | 2006-09-28 20:34

『ヨブへの答え』から
『無意識からのメッセージを理解することは、
意識の務めである。意識が務めを果たさなくても、
個性化過程は進行する。
ただしわれわれは個性化過程の犠牲となって、
避けられない目的地へ運命によってひきずられてゆくことになるだろう。』

ユングの書いた本は、なかなか内容が難しいです。
それでもなにか惹き付けられて、何度も読みたくなります。
『ヨブへの答え』(C.G.ユング著、野村美紀子訳、ヨルダン社)も
そのような一冊です。

さて、自分の内面でなにが起こっているのかを意識するしないに関わらず、
個性化の過程は進行していきます。

個性化の過程とは、意識と無意識が統合されていき、
新しい意識の状態が生まれることです。

通常、意識は私たちの思考や感情、
そして経験してきたこと強く結びついています。

私は、こう考える。
私は、こう感じる。
私は、こういう経験をしてきた。

そのとき、考え、思い、そして経験をしているのは、
私だと思っています。

もう少し言うと、
考えている、感じている、そして経験をしている「主体」を
私だと思っているのです。

しかしながら、それだけがあなたの全てではなく、
むしろ、あなたという意識はその限定された枠組みに閉じ込められているのです。
この枠組みがエゴ、あるいは自我です。
本当のあなたは、もっとずっと大きな広がりを持っているのです。

それを見いだしていくことを、個性化の過程といいます。
それは、いままで無意識だったこと(もっとずっと大きな広がりを持っているわたし)を、意識していくことなのです。

頭でこのことを理解することではありません。
意識そのものが変容することにより、自らのものとしていくのです。

それは、意識的にやるべきことなのでしょうが、
そのようなことに全く無意識であったとしても、
いのちのもつ強力な流れは、すべてを個性化の過程へと向かわせます。

ただそのような場合、多くは苦しみを伴うものとなるのです。

アフガンでは今でも、毎日100人の方が亡くなっているそうです。
世界には、内戦の絶えないところも多くあります。
鬱で悩む方も多く、日本の自殺者は3万人を超えています。

これら全てを、個性化の過程として見ることも出来ます。
苦しみがもはや絶えられないものになるとき、
ようやく意識のありようが変わり始めるのです。
いのちはそのような目的地に向かって、
全ての苦しみを整えているかのように思えます。

もし、私たちが意識的に個性化の過程を歩むことが出来るのであれば、
生まれてくる状況はずいぶんと違ったものになるでしょう。
仮に状況がそれほど変わらないとしても、
あなたの意識とエネルギーの状態には、天国と地獄の差が生じます。

『無意識に経過する自然な個性化過程と意識的に行なわれる個性化過程のちがいは
大変なものである。
前者では意識が一切介入しないので、
終わりも初めも等しく暗黒のうちにある。
だが後者では闇であったものが多く光りに到り、
人格がくまなく照らし出されると同時に、
意識が必然的に広がりと知識を獲得する。』

エックハルトは「苦しみは人の成長に必要か」との質問に、
「それがもはや必要なくなるまでは必要だ。」と答えました。

        ◇ ◇ ◇

『こんにち人間の運命は、
道徳的にいっそう高い段階すなわちいっそう高い意識水準へよじ上ることによって、
墮天使からこっそり渡された、
人間には過ぎた能力を使いこなせるようになるかどうかの一点にかかっている。』

墮天使からこっそり渡された能力とは、
思考する力です。マインドの働きです。科学と技術です。
残念ながら、私たちはマインドを使っているのではなく、
マインドに使われているのです。

「そんな考えこまなくても、
もっと気楽にいけばいいのよって言われるけれど、
どうしても考えてしまうのよね。
気楽に生きれる人がうらやましいわ。」

そのとき、あなたは考えているのではなく、
考えさせられてるのです。
それは、言うならば中毒症状のように、
考えることをとめられない状態です。

しかしながらよく考えてみるに、
皆このような状態に陥っているのです。
それは、あなただけではないのです。

「そんなに考えこまなくても、もっと気楽にいけばいい」
とアドバイスをしてくれる人も、
自分が全く同じ罠にはまり込んでいることに気付いていないだけです。
でなければ、このような役に立たないアドバイスでよしとするわけはないからです。

        ◇ ◇ ◇

『こういうことを考えそうにない人びとでさえもこんにちはもはや、
人間の心理になにかが起こらねばならないという洞察に対して
目をつぶることはできない。
残念ながら「ねばならない」という語は、
なすべきことを知らない、
目標へ導く道がわからないということを暴露している。』

このままではダメだ、何かが変わらなければいけない、
と感じている方は多いでしょう。
しかしながら、それではどうすればいいのかということについては、
よくわからないのではないでしょうか。

それが分からないから、
例えば教育基本法を改正することや、
憲法を改正することを
第1としているように思えます。

しかしながら、本当に大切なことは、
一人一人が意識的に個性化の過程を歩むことなのです。
このようなことは、どこでも教えていないことです。
それは、まだ私たちが「無意識」であるからに他なりません。
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# by yoji_iwata | 2006-09-21 18:15

骨を折りました
先週の日曜日、比良山に登ったときに下りで足を滑らせ、
ちょうど横にはりでていた枝に横腹を強打。

その後、1週間経っても痛みがのこるなと思い病院で見てもらうと、
肋骨(ろっこつ)の一本が折れていました。

特に何の処置をするわけでもなく、
そのままにしておくと1ヶ月ほどで骨がつくそうです。

そ〜か。肋骨はこんな簡単に折れるのか。
また、ほっといてもなおっていくのか。

何れもちょっとした感動でした。
しかし、咳をするとひびく...。イテテ。
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# by yoji_iwata | 2006-09-21 09:52

ユングの遺言
c0031466_20102394.jpgスピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」、
また山本文緒さんの小説を映画化した「群青の夜の羽毛布」を見ました。

人間の中にある闇が、実によく描かれていました。
そこにある難しさ、そしてそれを越えていこうとする意識の萌芽。

いずれの映画も人間の中にある闇と向かい合い、
そこにどのような光が存在し得るかを問いかけています。

               ◇ ◇ ◇

ユングが亡くなる18ヶ月前に撮影されたイギリスBBCの番組が、貴重な資料として残っています。
今では誰もが、amazon.comからこの資料を入手することができます。

インタビューの中ユングは質問されます。
「あなたは神をいまでも信じていますか」

ユングはこの質問ににこっと微笑み、
「なんと答えればいいでしょうか」と言った後に、

「I know. I know.」
と2度繰り返します。

私は知っている。信じているのではなく知っている。

彼の心理学は〜についての解説ではありません。
自分の全体性を現実に生きること、経験すること、
それが彼の心理学なのです。

また、次のような質問もありました。

「あなたは第2次世界大戦の開戦を、ドイツ人クライエントの夢から読み取られました。
いま、第3次世界大戦の開戦を示すような兆候は、夢に現れているでしょうか?」

ユングは、いろいろな徴候は見て取れるものの、
そこから結論を読み取ることは難しいと答えます。
なぜなら現代人の夢は、あまりに恐れによってゆがめられているからだと言います。

「しかしながら」
とユングは続けます。
「間違いなく言えることが一つあります。」

私たちはもっともっと自分の中で何が起こっているのかを知る必要がある。
それは、至急を要する課題だ。

全ての邪悪なるものは人間の中にある。
人間こそが世界に対する脅威だ。

「And we are pitifully unaware of it.」
そして、私たちは哀れなまでに、自分たちの中で何が起こっているかに無意識だ。

ユングは、私たち一人一人が新しい意識のありように至る必要のあることを、
切実な課題として感じ取っていたのだと思います。

この課題は、今私たちが直面している様々な危機を乗り越えていく為だけではなく、
私たちが本当の喜びを生きていく上で、
歩むべき道だと思います。
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# by yoji_iwata | 2006-09-20 19:38

高松塚の教え
c0031466_11244148.jpg

ここのところ、古墳内部の絵画の状態が悪化しているというニュースが多い。
発掘当時と比べて、その損壊が著しい。
特にここ数年がひどいという。

最初にその絵を見た人は、
漆喰の際立った白さに浮かび上がる、極彩色の壁画に息を飲んだ。
古代の人の魂と出会ったかのような感動だ。

それだけに、
惨憺たる現状への嘆きは深い。

しかしながら、私はこう思う。
壁画が消えゆくいろんな理由はあるだろう。
しかし、そもそも全てのものは消えゆくのだ。
今の壁画の状況を死に瀕する人に例えた人がいる。
「いま必要なのは優秀な主治医です。」
しかし、どんなに優秀な主治医でも、
死を取り去る事は出来ない。

たしかに、いろいろな不手際で、
本来ならもっと生あるものが、
最後を迎えなければならないのは残念な事だ。

しかし、それでも、
形あるものは全て消えゆくのだ。
高松塚の絵は、
美しく輝く気品をたたえながら、
そのことを教えてくれているように思う。

全てが消え去った時に、
そこには何も残らないのか。

高松塚の絵が消えゆくことを、
静かに黙想してみよう。
そこに、なにか平安を感じる事が出来ないだろうか。

これは、文化庁がその謝罪の中では決して言えないこと。
新聞には決して書けないこと。

そして、一番大切な事。
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# by yoji_iwata | 2006-09-16 11:17


現代のMonkが書き記す、日々の生活を深める為のヒント。
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