自我がなくなれば、苦しみはなくなる。
これは、仏教の教えの中心だと思います。
これと同じようなテーマを、
私は聖書の中にも見ます。
それは、皆さんご存知の「エデンの園」の話し。
アダムとイブが出てくる、あの話しです。
この話しは実に興味深く、
簡単に読み流すと、
大切なところを見過ごすので、
ゆっくりと味わってみましょう。
聖書は「創世記」から始まります。
6日間で世界を創造した神は、7日目に休まれました。
その後、神は東の方に「エデンの園」を設けられます。
これが今日の舞台です。
エデンの園とは楽園です。
楽園というのは、「苦しみのない状態」と言えるでしょう。
皆が幸せに暮らしていたのです。
ところが、その楽園で大きな事件が起こるのです。
エデンの園には、一つだけ守るべき大切なルールが存在していました。
それは、園の中央にある、善悪の知識の木の実を食べてはならない、というものでした。
皆さん、既にこの時点で、一つの結末を予想されるでしょう。
昔話だってなんだって、見てはいけない、してはいけないと言われているもので、
最後まで見なかった、やらなかったなんてものはないからです。
「そんなルールを設定するくらいなら、
最初からそこに木を植えなければ良かったじゃないか。」
「神様は、どうしてルールを守れる人間を作らなかったのか。」
おっしゃりたいことも色々あるでしょう。
しかし、ここはぐっと我慢して、先に進むことにしましょう。
結論からいきますと、
善悪の知識の実を食べてしまった、アダムとイブは、
楽園を追放されるのです。
私は「エデンの園」とは、
人間がまだ、今のような意識を持つ前の状態、
言うならば、まだおさるさんの意識であったころを表現しているのだと思います。
そのころ、まだ私たちは、
起こってくる出来事に「良い」とか「悪い」というラベルを貼ることをしませんでした。
なぜなら、考えるということがなかったですから。
あるいは、「自我」がなかったからです。
自我ない状態とは、エデンの園をさします。
それは、苦しみのない場所なのです。
しかしながら進化のプロセスで、
人がおさるさんからホモサピエンスへと進化していく中で、
人は考えることを始めたのです。
それは、「自我」の誕生です。
人が考えることを始めたと言いますが、
正確にはそれは、人が選択したのではなく、
もっと大きないのちからの促しがあってのことでしょう。
なるほど、知識の木を植えたのは神なのです。
実は、この知識の実を食べたのは、
「アダム」と「イブ」ではありません。
その時は、まだそのような名前で呼ばれていなかったのです。
名前はありませんでした。
ただ、「人」と「助け手」と聖書には記されています。
知識の実を食べたときに、
3つのことが起こりました。
一つ目は、
「人」と「助け手」が初めて、
自分が男であり、女であることを知ったのです。
彼らは恥ずかしいと感じ、イチジクの葉で衣服を作りました。
それまで、彼らは素っ裸だったのですから。
二つ目は、彼らに名前ができたということです。
「アダム」と「イブ」です。
三つ目は、もはや楽園にはおれなくなったということです。
このことは、それぞれ次のように考えられます。
自我が生まれたと同時に、
それまで一つだった世界に分離が発生します。
彼らは初めて、自分が相手とは違うということを知ります。
自我が生まれたと同時に、
自分に、そして相手を、「ラベル」を通して、見るようになります。
「アダム」というラベル。そして「イブ」というラベル。
そのラベルを、存在そのものであるとしてしまうのです。
もはやエデンの園は見えなくなります。
「エデンの園」というラベルを理解出来るだけです。
結果として、自我が生まれたと同時に、
エデンの園にはおれなくなります。
自我の特徴である、「分離」と「ラベル貼り」によって、
エデンの園から離れざるを得ないのです。
このようにして、「自我」が生まれ、
そこから「苦しみ」が始まります。
エデンの園を追放されたのは、アダムとエバ、
つまり人間だけです。
その他の動植物は、今でもエデンの園にいるのです。
だから、今日にいたるまで、
動植物は、いまここを生きているのです。
悩んでいる「さる」を見たことがありますか?
さて、このようにして、楽園にはおれなくなった私たちですが、
一つの希望も記されていることを書いておきましょう。
エデンの園の中央には、
善悪の知識の木の他に、
もう一本大切な木が生えていました。
いのちの木です。
そのいのちの木は、いまだエデンの園の中に存在しています。
私たちの旅は、エデンの園から出て行くところに始まって、
いのちの木の実をいただく、
すなわち自我を得て、苦しみが始まり、
自我を越え、苦しみから解放される方へと続いているのです。
いのちの木は、
『ケルビムと輪を描いて回る炎の剣』によって守られています。
これは、自我がどれほど強固であるかを表しています。
そこへ至る道は簡単ではないでしょう。
しかしながら、希望がはっきりと記されているのです。
希望はあるのだろうかなどというあいまいなものではなく、
希望はあるのです。
ただ、それを「観る」ことが出来るかどうか、
それが私たちの課題です。