マザーテレサがインドという土地であれほどの活動が出来たのは、
彼女が従来のキリスト教の枠に縛られていなかったからだと思います。
「イスラム教徒の人はより良いイスラム教徒になりなさい。
ヒンドゥー教徒の人はより良いヒンドゥー教徒になりなさい。」
そんなことは当たり前と思うかもしれません。
しかし、このように言うのは大変なことなのです。
キリストのみを救いと考えるのであれば、
その人たちをキリストに導かないことは、
その人たちが地獄へ引きずられていくことを止めないことだからです。
むしろそれを奨励していると言ってもいい。
そのような考えは全く愚かなことだと、笑う方もおられるでしょう。
しかし、多くの人が大まじめでこのように考えています。
キリスト教に限ったことではありません。
あるいは、「私たちは全ての宗教がつながるべきと考えます」
という人たちがいるかもしれない。
しかし注意しなければ、今度は自分自身が中心に入ってしまいます。
「どうして皆にはこのシンプルな真実が伝わらないのか?」とつぶやくとき、
もはやその人も一つの「宗教」にとらわれ始めているのです。
その言葉は、全ての宗教家がつぶやいてる言葉なのです。
マザーテレサは、彼女が属していた修道院を出て、
たった一人で活動を始めました。
このとき彼女が出たのは修道院という建物だけではなく、
従来のキリスト教の枠組みからも足を踏み出したのです。
だから彼女は修道服を脱ぎ捨てました。
そしてサリーをまとったのです。
修道服が表しているのは、今までのキリスト教の枠組みです。
彼女はそれを脱いだのです。
それではいったいなにが彼女に残ったのでしょうか?
それは、キリストの愛です。
彼女が分かち合おうとしたのは「キリスト」ではなく、
キリストの愛だったと思います。
キリストの愛という言葉にはまだ「キリスト」が残っていますが、
彼女が隣人に対して分かち合った愛に「キリスト」がついているわけではありません。
彼女の真実は言葉にではなく、行いの中にあるのです。
Missionaries of Charity
彼女は自分の活動にそのような名前をつけました。
Missionaries というのは「宣教師たち」という意味。
通常、宣教師の役割は福音をのべ伝えること、
つまりキリストによる救いを伝えることです。
しかしながら、彼女が伝えようとしたのは Charity(チャリティー)でした。
チャリティーとは慈善事業を意味します。
Missionaries of Charityは 「神の愛の宣教者会」と訳されますが、
原文の中に神は出てきません。
神の愛の宣教者会というときに、
その力点は愛に置かれています。
神ではありません。
もちろんマザーテレサはキリストを通して、その愛に触れたのです。
しかしながら、彼女が触れた愛はキリストを越えているのです。
彼女は自分の内に存在しているキリストの愛を、
行いの中に表しました。
Doing small things with great love.
小さなことを行なうこと ─ 大きな愛を持って。
It is not how much you give, but how much love you put in giving.
どれだけ多く与えたかではなく、与えることのなかにどれほどの愛が込められているかだ。
It is not how much you do, but how much love you put in doing.
どれほど行なったかではなく、行いの中にどれほどの愛が込められているかだ。
彼女の指標はいつも、何をどれだけなしたかではなく、
やっていることの中にどれほどの愛があるかでした。
お皿をテーブルに並べている人に彼女は言いました。
いまあなたは、どれほどの愛をもってお皿を並べているのかと。
それは、街に出て倒れている人を救うのと同じことなのです。
内側に存在している愛を、表現するということにおいては。
それこそがいつも変わることのない彼女の中心で、
彼女のエネルギーなのです。